昭和48年04月19日 朝の御理解



 御理解 第59節
 「習うたことを忘れて、もどしても、師匠がどれだけ得をしたということはない。覚えておって出世をし、あの人のおかげでこれだけ出世したと言えば、それで師匠も喜ぶ。おかげを落としては、神は喜ばぬ。おかげを受けてくれれば、神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜びじゃ。」

 習うた事を忘れて戻すと言う。私は合楽で皆さんがこうやって、教えを受けて下さる。この御教えが本当に身に付いていったら、お徳にならない筈はないし。同時におかげを受けられない筈はないと思うのですけれども、私が思うほど徳を受けたり、おかげを受けたりして居る人が、無いところをみると、結局は戻して居ると、言う事になるのじゃないでしょうかね。
 それは合楽の信奉者の皆さんの場合、本当に合楽に御神縁を頂いたと言う事が有難い、もう本当に信心が無かったならばと言う様な意味での事はそれは皆さんが実感して居られるし、又言うてもおられることなんですけれども、本当にいわゆる神も喜び氏子も喜び金光大神もの喜びじゃと仰る様な喜びです。そういうおかげなんです。そういうおかげでなからなければならんのです。
 そういうおかげが頂かれる道を、ここではそういう道を説かせて頂いて居る。だからその道を歩くならば神も金光大神もそして氏子も、本当におかげでおかげでというおかげになってくる筈なんだけれども、只おかげを受けて居るというだけで、その自分が有難いと思うおかげであってね、金光大神も神様も喜んで下さると言った様なおかげでない証拠だと云う様なものを自分の信心から一つ気付かせて貰うて、いよいよ本当の信心させて貰わなきゃいけないと思うですね。
 そんならば、どういう信心をさせて頂いたらよいかと、今朝から今日は佐田さんところの、おじいさんの五十日祭があります。その事をお願いさせて頂いておりましたら、松竹梅と言う事を頂いた。松竹梅といいや、これは目出度いものですねえ。それこそ、教祖生神金光大神様はです、子孫繁盛、家繁盛の道を教えるのじゃと仰るでしょう。今日の御理解もそうです。
 そういう道を教えて下さるのに子孫繁盛にもならなければ、家繁盛にもなっていない。いうならば神も喜び金光大神も喜びと言う様なところになっていないからなんです。私はいつも佐田さんの所で思わせて頂くのは、あちらが乾物の問屋さんですから、乾物でいつもお知らせ頂くですね。宅祭の時の御理解はいつも乾物で御理解下さる。今度もね、やっぱり松竹梅が乾物なんです。松がいわゆるカツオの事をマツウオと言いますよね、削りカツオのことを、あれはマツウオというですねあの松なんです。
 それから竹はねチクワなんです。チクワをこう斜めに切ってですねえ、松の根元にこう置いて有る。こういう信心にです、梅の花の信心が伴うたらもう絶対のおかげであり、徳であり、神も喜び金光大神も喜び、氏子もの喜びと言う事になるのです。マツウオといいや、身を削って味を出していくという信心です。チクワというのは竹の輪と書いて下さい。竹と言う事は素直、輪と言う事は和賀心の和。これを願い求めての信心。
 しかもそれがです、信心辛抱という辛抱が、例えばですね、松と竹の信心は出来る、仲々内容はいい。素直な人でもある。いよいよの時には本当に身を削ってでもと教会の為に、其身から打ち込んで御用の出来る人がある。けれども辛抱が続かない。それではです、いわゆる神も喜び金光大神も喜びと言った様な徳にならない。力にならない。おかげは頂いても、神も喜び金光大神も喜びと言う様なおかげにはならない。
 昨日四時の御祈念に、やはり今日の佐田さんところの、お願いをさせて頂きよりましたら、頂く事が白という字を頂いて木と頂いた。白木とこう頂いた。いわばあちらのおじいちゃんが、やすみにつかれて半年位、やすみにつかれたでしょうかねえ、もう本当に只不思議で不思議でたまらない事はね、あれだけ永く寝ておられたのに、床づめが出来なかったことです。もう本当にもう楽な楽な、いわばその半年間。只起きられたりなさらなかっただけであってね。
 それはもう、その事をいうなら本当にまあ、本当におかげの中にこうして居られるんだなあというばかりのおかげを受けて居られましたです。もう段々あそこ一、二カ月位の間はもうそれこそ、恍惚の人ですもう本当にそういう感じで、もう私が宅祭に参りました時なんかはもう、病室に見舞わせて頂きましたらもう涙を流して喜んで、私に手を差し伸べてから、手を握って喜ばれた。と、言う様にですね、もう本当におかげを頂いて、欲もなからなければ得もない。
 それはもう名代の仏教信者の御一門でね、久留米の佐田さん一家というのは、月々親戚中の者が集まって、いわゆる仏教の信心共励をなさる、まあここの言葉でいうと。そしていつも他所から偉いお坊さんを来て貰っては話を聞いては仏教の信心の共励をなさるというほどしの熱心なお家で、十二代ですか続いたお家なんです。いうなら久留米の名門です。久留米の佐田さんというのはね。
 ですからもう御仏壇なんかそれはもう見事なものでした。中の仏様なんかもう大変な骨董価値のある大変なものだったそうですけれども、そういうものはみんな人に上げて仕舞われて改式のおかげを頂いて居られた。ですからもう本当に、いわゆる今日の御理解でいうと、そのもう本当におかげは頂く、いうならマツウヲの信心とチクワの信心。チクワというのは、今日はチクワを竹に見立ててあるのです。斜めに切ってはすにきってね、いわゆる正月の門松の様なものなんです。
 その信心が出来て居られる。そんなら信心辛抱も又出来て居られる。だからこの信心辛抱がもう本当に続きさえするならですね、もういよいよ神も喜び、金光大神も喜び佐田さん御一家もいよいよ喜ばせて貰えると言う様なおかげにならない筈がないと私は思うです。ところがね、この信心辛抱がみんなが出来ないです。ここで折角御教えを頂いておる、それをです知ってはおるけれども、実行が出来ないというのはです、師匠に習うた事を戻している様なもんです。
 その様な信心が続けられて周囲の信心がです、おじいさんのやすんでおられるけれども、おかげの上に表れない筈がなかった様に、心の状態もその様に初めの間は、元気な時分は、お前達がいくら金光様の信心したっちゃよか、改式したっちゃよか、けれども私は仏教だけは止めない。私が死んだなら仏教でといわれる程しにやっぱ仏教のそれはもう染み込んでおった。
 それが段々おかげを頂かれて改式と言う様なところ迄にならせて頂いて、そんなら御自身は信心はない、教えは受けてないけれども、もういつの間にかあくが抜けて、赤でもなから無ければ青でもないと言った様なね、もう本当に白そのもの、いわゆる白紙の様な状態に心がなっておられた。只普通で恍惚の人の事をこの辺ではちったぼうけちゃるとこう言いますけれども、そのぼうけ方の素晴らしいことはもう言われることも指図される事も金光様の御信心の事ばっかりじゃった。
 いわゆる白い木。白い心になって居られたという。心が白紙の状態になっておられた。けれども信心の徳とか力を御自身が持って居られる訳ではなかった。そこでです例えばその白い木と書いて、白の横に糸辺を二つこう書いて頂いた。そういうお知らせを頂いた。だから合楽に楽という字になりますよねえ。往生安楽とか極楽とかいう楽なんです。いわゆるお道の信心でいうなら安らぎの霊、安心の霊と言う事なんです。
 それはんなら、例えばこの糸辺二つと言う事を家内子供と言う事になるのじゃないでしょうか。いわゆるおばあちゃんと泰造さん達御夫婦の信心がその横に伴う限りです、神様との天地とのつながりというものが出来て、おじいちゃんはいよいよ安心の霊とそのこれからの精進も続けていかれる事が出来る訳です。次に御心眼に白木実という、一寸法師の様な一寸法師ですよね、あの俳優が居るでしょう。あれを頂いた。みのると言う字はどう言う風に書いてあるか私はよく覚えませんけれど。
 みのるだから実と言う字を、私は実と言う字を頂いた、実と言う字はみのると読みます。そこからおじいちゃんの送り名です、五十日間お名前頂いてなかった。だから結局、故佐田保平の霊神として拝ませてもらいよった。それをまぁ有難いお名前を頂いた訳ですけれども、やすと言う事はいや栄のいやという字とすは寿というへいと言う字はあれは平たいとよみますから、ひはごひれいひでありらはりょうと言う字「佐田弥寿比良実彦之霊神」という送り名を頂いた。
 私共が、だから本当に信心を頂くと言う事は、まずね私共が白の心の状態にならなければいけない。それに神様好みの色を付けて頂くと言う事にならなければ、本当の信心にならない。只おかげならおかげと言う事だけに、の事だけを考えて居る信心ではおかげになりません。いわゆる、神も喜び金光大神も喜びというなおかげになりません。先日西岡さんから手紙がきた。長々ともういよいよ学院もあと何ですか明日迄ですかね、先日幹三郎が学院で一番最後の御結界奉仕の御用を一日頂いた。
 その幹三郎君が最後の御結界奉仕の時、一日奉仕終って皆に御理解を聞いて貰らわにゃならない。御理解をしなければならない。その御理解が余りに素晴らしかったので、と云うてそれをそのままテープにとったのをそのまま話した通りの事を書いてそのよこしておる。それは話として話でもない様な感じ。けれどもその彼が心の中に感じて居る実感というものが、こう出てくるんですね。もう学院生一同が感極まって泣いた。先生方は頭を抱え込んでしまわれた。
 そしてその後のもう異常な迄のこの感動というかね、はぁもう幹三郎という奴はもうまぁ偉い奴じゃとか、もうとにかく学院生の声も色々書いてあります。それにはどう言う事を言っておるかというとです、僕はね勉強する事も余り好きではない。信心の修行させて頂く事も余り好きではない。もう一年間こうやって日々信心修行させて頂いたけれども、好きでした事では一つもないけれどもです、人が助かる事ならば嫌いな勉強もさせて貰おう、人が助かる事ならば修行も一つ本気でさせて貰おうという一年であった。
 そこにはいろいろ言ったあいだにもう絶句しているですね。いわゆる言葉になって出てこない訳です。胸が一杯になって。勉強も余り好きじゃない、修行も余り好きじゃない。けれども人が助かる事ならば、きらいな勉強もさせて貰おう、きらいな修行もさせて頂こう。私はですね、これで神様の感動をよばないはずはないですね。これは幹三郎の感動じゃないです。
 私が11、2の時に親先生と岸先生の会話の中から本当の信者を一人でも良いから作って呉れと岸先生との会話の中に私はそれを側で聞いておって、その本当の信者に私がなろうと思うたらね、もうどうにも出来ない感動が湧いてた事を、いつもお話致します様にね、神様が喜んで下さると云うことは、お参りする事も朝早起きすることも修行する事も、又信心の勉強する事も余り好きではないけれども、人が助かることの為ならば、嫌いな勉強もさせて貰おう、嫌いな修行も本気でさせて頂こうと。
 これが神様の心に交わらない筈がない。それが神様の感動になる。その感動が幹三郎の心の中に響いて、とうとう仕舞にはすすり上げて泣いた。ですから聞いておる者みんなが泣いてしもうた。皆んなうっついて泣いてしまうた。どうでしょうかお願いをしとる、この願いが成就する事の為なら、いっちょどげな修行でもさせて頂こう、信心なあんまり好かんばってん、いっちょ参ってもみろうと言う事とは、もう全然天と地程に違う訳なのですよ。だからおかげを目指すというよりも、信心を目指せというのです。
 神も喜び氏子も喜ぶ。そして私共も喜べると言った様なおかげには、先ずひとつ私共が白紙になって、そして信心を頂こうという気にならなければですね、そういう気になればここで師匠が皆さんに伝えておること、私が皆さんに伝えておることはお徳を受ける話ばっかりなのですよ、実は、それをそんならお徳を受けずに、只神も喜び金光大神も喜ばれると言った様なおかげではないおかげを頂いて。それが一生金光様の信心しとりましたで終ったんじゃ馬鹿らしい、相済まん事になる。だから皆さんの場合はです。
 人が助かる事の為ならばとは思わんでもです、まず自分自身が助かる事の為に、勿論心ですよ、自分自身がいうならば助かるための信心。御利益という意味とは違う。又は最近いわれる五つの願いと言う事の、事の為にです、私共の信心修行がなされる日々の御教えが、その事のために凝視されるならば、必ず神も喜び氏子も喜びじゃ金光大神もの喜びじゃと言う様なおかげになってくる。金光大神も喜んで下さり、神様も喜んで下さる様なおかげを頂かなければならない。為には、佐田さん所の例をとりました。
 幹三郎の話を聞いて頂きました。そこにです私共が本当に思う思いが神様に通じて、神様の喜びがこちらへ帰ってくる様なです、それをそんなら真の信心と言う事。真の信心を本気で身につけたいというのです。只分かりたいじゃいかん。それが血に肉にならなきゃいけん。本当の信心真の信心にです、本当なおかげ真のおかげが伴わない筈もない。そういうおかげを頂いた時に、神も喜び金光大神も喜んで下さるのであり、同時に私共氏子も喜ばれる所のおかげになって来るのですよね。
   どうぞ。